監視について
家に監視カメラをつけた。
屋外を見張るものではなく、屋内を見張るためのものだ。
というのも、今やぼくを見張ってくれる人間がいなくなってしまったからである。
人は二度生まれる
一度目は存在するために
二度目は生きるために
自分として生まれたからには、ひとつの例外もなく、自らは自らと一心同体のはずだ。
自律や克己という言葉があるが、果して一心同体である自らを律し、克服することができるものだろうか。
ぼくはできないと思う。事実これまでの人生で自分を律したことなど一度もなかった。
自分はどこまでも自分の味方であり、その味方に対してどうして酷いことができようか。
しかしそのままでは自堕落となり、どこまでも沈んでいってしまう。
というわけで、ぼくの人生にはコルクのようなウキが必要だった。
このウキの役割は自分ではできないものであり、他者に負ってもらう必要がある。
ここで大事なことは、この他者が満たすべき条件というのが二つある、ということだ。
第一に、隣人であること。
常に隣に立ち、ぼくを引っ張り上げてもらわなくては困る。
第二に、味方でないこと。
味方にはどこまでも甘くなってしまうのが人の性だ。近づきすぎて一心同体となるようでは、ウキにはなりえない。
この二つの条件の両立というものがかなり難しい。
というのも、人はストレスを覚える対象からは遠ざかる傾向が強いからだ。
常にこちらを監視し、律してくれる存在を作ること。
つまりは敵であり、かつこちらから離れることができないような人間関係を構築することが必要であった。
最も手っ取り早いのが、組織や契約で縛られた関係の中で敵を作ることだ。
これはぼくが長年行ってきた手法でもある。
ラグビー部を例にとれば、「弱いのに練習しない奴はゴミ」という主張を前面に押し出してチームメイトを攻撃することで、
「そういうお前は弱くないのか」
「お前の練習量は誰より多いのか」
という白い眼差しを自分に向けさせることが可能となる。
自らを律することができなくても、他者の監視の目が勝手にこちらを律してくれる。
高みに到達する上でこれほど手早い方法はないと今でも思う。
仲良しこよしでいることは確かに心地いいものかもしれない。
しかしその心地よさは、だるだるのスウェットを着ているときのような心地よさだ。パリッとした張りがない。
常に緊張感を持って生きるために、人生には鉄の織と鋼の看守が必要だ。
ただ言うまでもなくこれは他者を人とも思わず、監視カメラとして扱うクソゴミウンコな生き方なので
実行すると人間関係めちゃくちゃになるんちゃうか。知らんけど。